その61

夜中、何かが木の幹を削るような、びゅっ、びゅっという鋭い音。何日か前に聞いたのと同じ音。熊か、何かの鳴き声か。

明るくなってから起きる。昨日は遅い時間まで歩いたので、今朝は朝早く起きるのは止めにして、眠れるだけ眠る。

ゆっくりと歩く。だんだんと体が起きてくる。ぼんやりしていた頭も目覚めてくる。草木が茂った暗い森を抜け、草原の日なたの山頂にでる。靴を脱ぎ、じめじめして臭っている靴下を乾かす。岩場に座って陽を浴びながら栄養いっぱいのチョコレート菓子を食べる。「体も頭も目覚めたし食べ物も食べたし、あとは出すものを出して、顔を洗えば申しぶんのない一日になるぞ。おれは簡単な人間だなあ」

しばらく歩いてから、穴を掘って出す。ものはゆるい。まだお腹は本来の調子ではない。のらさんも出す。のらさんは毎日快便。

山の斜面に腰を下ろして休む。木漏れ日のなかをさわやかな風が吹く。「今日は気持ちがいい。「トレイルがまっ白で何だろうと思ったらぜんぶ芋虫だったよ」とのらさん。わたしは手足のない生き物と、手足があり過ぎる生き物が大嫌い。

物思いに耽りながら、黙々と歩く。森のなかはシダでいっぱい。のらさんがたまに立ち止まって花の写真を撮る。黄色い小さな花。花が風に揺れてうまく撮れない。

近くで小さな川が流れる木陰でザックを下ろす。顔を洗う。靴下を脱ぎ、足を解放する。マッシュルーム風味のごはんのなかに高野豆腐。らーめんのなかにチーズとわかめ。これはまろやかな磯らーめんの味。緑茶を飲む。空は雨が降りそうになったり晴天になったり。気持ちのいい空間のなかでのんびりと過ごす。

のらさんが靴の中敷きの匂いを嗅いで「磯の匂いがする」と言う。そこでわたしも嗅いでみると確かに海水浴の後のような匂い。「汗で出た体の塩分が染み込んだのかなあ」とのらさん。

できものでぱんぱんだったわたしの腕はいくぶん普通に戻った。虫刺されの痕のようなぼつぼつは増えるばかり。ぼりぼり掻きつづけている。腕にも足にも腰にも首にも背中にもある。「あせもかもしれない」とのらさん。腕時計をしている手首、ストックのバンドが当たる手の甲のぼつぼつはふたりとも特にひどい。のらさんはストックの持ち方を変える。

歩く。今日はそんなに長い距離を歩かないと決めている。地図もあまり見ず、時間も気にしない。のんびりとした気分。

山の上の、小屋の近くでテントを張る。川で水を汲む。辛いピンク鮭入りじゃがいもと、ハーブ風味のごはんに溶けるチーズとトマトと玉ねぎとにんにくを入れて食べる。サッサフラス茶を飲む。

上空には強い風が吹いていて、木々がざわめいている。顔の周りをたくさんの黒くて小さな虫が飛び回っている。この虫はわたしたちの肌を噛む。そのたびにちくっとして気に触る。のらさんが手を叩いて殺す。「この虫は追い払うのは諦めた。どんどん殺すことにする。殺られるまえに殺る」と言った。

暗くなり始めたころ、外ではますます強い風が吹き荒れて木々が嵐の中のような音を立てる。しかし吹き荒れているのは上空だけで、テントの周りはまったく風が吹いていない。