その112

夜中、目覚める。体も寝袋もべたべたしていて不快。気温は下がっていて、寝袋から出て寝ると体を冷やしそうである。

明るくなる頃に起きる。テント内は結露してじっとりと濡れている。入り口を開けて風を通す。

カフェに入る。昨日の夜わたしたちが挨拶をした、眼鏡を鼻の先にちょんとひっかけたぎょろ目のお爺さんと、中年の女性が台所で動き回っている。マグカップでコーヒーを飲む。程よい苦味と酸味と、ちょっと柑橘の風味のある味。わたしは玉ねぎとマッシュルームとハムが入ったオムレツとライ麦パン、のらさんはアボカドとパプリカとマッシュルームとハムと落とし卵にパジルのソースをかけたサラダとライ麦パンを食べる。
コーヒーを5杯飲む。日記を書く。たまに顔を上げて、墨と青を混ぜた光沢のない色の壁、飾り気のない大きな木のテーブルを眺める。そのたびにのらさんと「この壁の色が好きだ。このくらいの大きさのテーブルを家に置きたい」という話をする。のらさんはこの食堂のロゴマークが絵柄になっているティーシャツを買う。

便所に行って出し、テントをたたむ。食堂のお爺さんに挨拶をし、「素晴らしい朝食とコーヒーのおかげで今日も元気に歩けそうです」と伝える。

歩きはじめる。舗装路を抜け、川沿いの林のなかを通り、大きな滝の前に出る。そこで突然、携帯用のお尻洗浄器をザックに入れ忘れたのではと思い立ち、探してみると果たして見つからない。わたしはした後に紙ばかり使うとすぐに穴が痛くなる質だし、持ち歩く紙の量は減らせるしちょっと手を洗うときなどにも重宝していて、お尻洗浄器がないと困る。食堂に取りに戻ることに決める。

のらさんには滝の前で待っていてもらうことにし、荷物を置いて手ぶらで来た道を戻る。忘れ物のために来た道を引き返すのはあまりにも辛い事なので、イヤホンを耳に刺し、ジェームズ・ブラウンの音楽を大音量で聴きながら歩く。

食堂を出発したばかりのハイカーたちとすれ違う。「なんだ、忘れ物か?」と訊かれるので「朝の散歩を楽しんでいる」と答える。

わたしがコーヒーを何杯も飲んでいたテーブルの上に、お尻洗浄器が置かれている。その席で地元の男性がご飯を食べている。

ジェームズ・ブラウンを聴きながら来た道を戻る。すでに汗びっしょり。のらさんの元にたどり着き、とうもろこしの粒が入ったマフィンを食べる。外はかりかり、口の中ではもっちゃり、程よい甘さ、とうもろこしのつぶつぶを味わう。

荷物を背負って歩きはじめる。「さっきまで手ぶらで歩いてたから、荷物を背負って歩くのは本職に戻った気分」とわたし。ゆるやかな長い登り。向かいから来るハイカーに「素晴らしい朝食が待ってるぞ。楽しんで」といちいち言う。

山を越え、下り、車通りの多い舗装路を歩く。しばらくすると家がぽつぽつと見え、やがてブティックや工芸品店や本屋、可愛らしい建物が並ぶ小綺麗な通りに出る。

スーパーマーケットに入る。値段は高い。次の町までの食料品の買い出す。スーパーマーケットの前にあるベンチに座り、シナモンとレーズンが入ったもっちりとしたパン、ミニトマト、薄揚げじゃがいもを食べ、ビタミン水を飲む。買った食糧をザックに詰め込み、また舗装路を歩き、山道に戻る。いくつかの涸れた水場を通り過ぎ、やがて沢の水が流れているところに出くわす。水をたっぷりと飲み、汲み、手ぬぐいを濡らして体を拭く。顔から足首までを丁寧に拭く。髪の毛と足首から下は拭かない。

激しい坂を登り、山の頂上に出る。汗びっしょりである。「完全に体を拭く前の状態に戻りました」とのらさんが言う。しかしわたしたちの体はあせもでぼこぼこの状態なので、拭けるときには拭いた方がいいのだ。のらさんは髪の毛が伸びて前髪が垂れてくるのがうっとうしいのと、髪の毛から汗が垂れてくるのがいやで、頭にバンダナを巻く。学校の給食をつくるおばちゃんに見える。

小屋に着く。小屋周りのテント場には、木の板で作られた台が組まれている。ここにテントを張れという事であるらしい。わたしたちのテントはテントそれ自体では自立せず、杖やペグを使って初めて起ち上がる方式のもの。板の上に張るのは難しい。しかし一丁やってみようという気で張ってみる。板の隙間にペグを差し込み、石を駆使し、張り綱を板の外にまで伸ばせるところは伸ばして土にペグを刺す。形にはなったが強度は弱い。

蝿と蚊を避けつつ、チェダーチーズ味のぴり辛ご飯を食べる。食糧袋を熊よけ用の金属の箱のなかに入れる。

テントのなかは蚊がたくさん。のらさんが一匹ずつ殺していく。血を吸っている者もいるし、吸っていない者もいる。蚊は大きくて動きが鈍いという事もあるが、のらさんは殺すのがたいへん上達している。ほとんど一撃で殺す。しかし今日はテントに押しつけて殺すとテントが崩壊してしまうかもしれないからやりにくそうである。

テントのなかは蒸しているが、夜が更けてから木々がざわざわしはじめて、風が少しずつテントに入ってくるようになる。しばらくすると風が止んで、ぽつぽつと雨が降り始める。バラカンさんのラジオを聴く。ふたりともなかなか寝付けない。りすよりももっと大きい、何かの動物が時々テントの脇を走り抜けていく。枝が折れてどざっと地面に落ちる音がする。雨はしとしとと降り続いている。