その63

マットを交換して寝る。のらさんの空気マットは体が滑りやすく、地面が斜めだったのでわたしはのらさんのほうにずるずると滑っていく。眠ったり起きたりを繰り返す。

明るくなり始めた頃に起きる。テントの中で栄養いっぱいのチョコレート菓子を食べる。穴を掘って出す。らーめんで塩分を摂りすぎたせいか夜が寒かったせいか、喉の様子がおかしい。

歩き始める。体がだるくて重い。これは寝不足のせい。

風は相変わらず上空でごうごうと吹き荒れている。昨日までは風が湿気を吹き飛ばしてくれると言って喜んでいたが、そろそろ風を浴び続けているのに疲れてきた。「風はもう飽きた」とのらさん。「風の音と水の音がまったく同じに聞こえる」とわたし。わたしは遠くから川や沢が流れる音が聞こえると「水があるぞ」とすぐに分かるのに、今日は風と水の音を聞き分けられない。

簡易小屋のとなりにある石造りのベンチ(誰かの墓標になっている)に座って休む。川のせせらぎを聞きながら、シナモン味の麦粥、薄平パンに落花生バターを塗って食べる。

のらさんが便所に行っている間に、蚊に首と顔と腕を刺される。たいがいの蚊はのらさんの血を好み、わたしの血を好まないのでのらさんと一緒にいる時は、わたしは刺されない。

今日はハイカーにまったく出会わない。静かな、気だるい森のなかを黙々と歩く。

舗装路に出る。高速道路と一般道が交差した、開かれた地帯。日本車に乗ったお姉さんが、町に降りるなら車に乗せてあげるよと声をかけてくれる。車は山の間をゆるやかに下り、町が近づくにつれて車の台数がどんどん増えていく。町に入ると道は格子状に組まれ、石造りの建物が連なっている。繁華街、銀行や教会、おおきなスーパーマーケット、閑静な住宅地。ここはおおきな町。

町の端を流れる川沿いの公園の芝生にテントを張る。ここはキリスト教の団体が、ハイカーがテントを張れるよう手配してくれた場所。近くにその団体の建物があって、そこでシャワーを借りる。タオルと石鹸も貸してくれる。シャワー室は八畳間くらいの大きさで何人かがいっぺんに湯を浴びれるようになっている。みんな水着を着用しているので、ノーパンだったわたしは汚れたズボンを履いたまま湯を浴びる。

そのとなりにの教会で、夕食を振舞ってくれる。ラザニア、茹でたとうもろこし、野菜のサラダ、パン、紅茶。クッキーとチョコブラウニーとブルーベリーのジャム。夕食を振舞ってくれた人たちの中には日本に来たことのある人が何人かいた。洗練された雰囲気の中年の女性が「東京で英会話講師をしているときに今の旦那と出会ったから、東京は特別な町」と言った。皆熱心にわたしたちに話しかけてくれる。わたしたちのまずい英語にも辛抱づよく耳を傾けてくれる。

スーパーマーケットで買い物。体が冷える。外は涼しいのだが教会もスーパーマーケットも冷房ががんがんに効いている。

夕暮れ前の住宅地を歩く。遠くにいた黒猫がこちらに向かって一直線に走ってきて、わたしたちに体をこすりつける。

公園に戻ってテントに入る。芝生にはいくつかのテントがぽつぽつと張られている。ハイカーたちが静かに話をしている声と、遠くで工場が稼働しているような音が、いつまでも聞こえている。